言いたいこと言えない

きむらさとしの日記

ご意見・ご要望

 

どこか遠くへ行こう
電車じゃ行けないとこへ
なんの心配も
しなくていい

箱の中身はなんじゃろな
答えは誰も知らない、だって
最初から何も
なかったんだから

サマーフレンド、調子はどうだい
冬は来ないまま過ぎてったよ
悲しみの季節にさえ素通りされた
僕はいったいどうなるの

一人で楽しくなろう
方法ならたくさんあるよ
誰のことも気にしなくていい
案外楽かもよ

頭を支配する罪悪感
問題は山積み、だけど
仕方ないだろ
どうにかなるさ

ウィンターランド、君はいずこ
夏に置いてけぼり食らってさ
とうとうみんなに見放された
さよなら幸せ

希望はあるってそれはさ
結果論の話でさ
あんたに俺の何がわかるんだよ
俺があんたをわからないように

軽やかに、静かに、
風のように、袖を通すように

死にたい
死にたい
死なせてくれ

性格と性質

 

今日は気圧が低いですね。
きむらです。

突然ですが、僕は性格が基本暗いです。
どこでお会いするかによって僕のキャラクターや見え方がだいぶ違うと思いますが、基本は暗いです。
どのくらい暗いかというと、寝る前に1日を軽く振り返っているところで
突如として気にも留めていなかった他人のちょっとした発言が悪意ある言葉に聞こえたり、裏の意味があるのではないかと勘ぐりいつの間にか朝が来るくらい暗いです。

僕のnoteは大体僕が落ち込んでいる時か激しい躁状態(ハイな状態)の時に更新されるんですが、今回は前者です。

前々からの悩みがあって、それは「人付き合いが苦手」ということ。
ここ数年で知り合いや友達が増えて、遊びや仕事のお誘いがあったり、
友達の友達で輪が広がっていくことがとても増えてきました。
知っている人が増えるのはとても楽しいし、新しい交友関係が広がることでどんどん自分の居場所が増えていくように感じます。

その反面、ここ最近の人間関係の広がりについていけてない自分にも気がついています。
それこそ、今働いてるゴールデン街は、一期一会的なライトな関係が多いので、お店の人として働いている分には楽しいし、結局は仕事なのである程度の諦めと線引きができてるんですけど、
本当にプライベートだったり、音楽つながりの友達は、
濃ゆすぎるというか、
親密すぎるというか…。

別に誰が悪いとか、特定の相手がどうというわけではなく、
自分の中のキャパの狭さに戸惑っている感じです。
その人単体や2〜3人で会う分には問題ないのに、
5人以上で集まった途端に、みんな友達なはずなのに、「集団」としてしかみられなくなり、
「この中の集団で自分はどんな役割でいるべきなのか」とか
『今の話題だと誰が中心でそういった場合どう対応すれば空気を悪くせずに済むだろう」とかを考え始めてしまい、
しまいにはそこにいること、その集団といることが苦しくなって離れたり、
ひどい態度をとってしまい周りを困らせてしまうことが多々あります。

そういう気持ちになってしまうことを理解できても、
友達は好きだし、新しい関係性が生まれていくことも好きだし、
いろんな人に会いたい欲求は引き続きあるので、
いざ自分と他人を守るためにお誘いを断っても、
「付き合いが悪いと思われてるんじゃないか」とか
「嫌われてしまうんじゃないか」「仲間外れにされてしまうんじゃないか」
とまた別の悶々が広がってしまうのでいよいよどうしたらいいのかわからなくなってしまいます。

マジで、めんどくさいと思われていることは重々承知してます、が!

こういう地獄のような僕の気持ちの動きは”性格”であり”性質”なんです。
よく「気持ちが沈みやすい時は筋トレをすれば治る!」という説や
「食事を変える」「環境を変える」「勉強や自分磨きに集中しよう!」といった数々の意見があるけど、
多少良くなったりその時は改善されるかもしれないけど、結局は逃れることの出来ない部分だと思う。

水は冷やすと氷になって、熱するとお湯になるように、
僕は集団行動に拒否反応が出るし、それに向き合いながら暮らしていくしかないという事実があるんだと思う。
まだ自分の適正や得て不得手が全部掴めたわけじゃないけど、
もう「みんな」として行動できないと諦めることができれば、もう少し柔和に人と関係を築き、自分も健康でいられる時間が増えるんじゃないかな、と思ってます。

なかなか遊んだり、フラっと飲みにいくお誘いをくれるのに断ってばっかでごめんなさい。
できるだけみんなの楽しい時間を邪魔しないように、そして自分の健康を害さないように生きていきたいなと思ってます。

「で、結局どっちなの?」

ここのところ、本当にいろんなことを考える。
楽しいこと、嬉しいこと。
悲しいこと、悔しいこと。

今日はなんとなく思い立ったことを書こうかなあ。

僕は自分を男とも女とも断定したくなくて、
正直誰かに「性別」を意識させたくなくてふんわりさせている。
そうしていると、人によって「性別による反応チャート」みたいなものが分かってきて、単純に面白い。

自然に男女のどちらかに振り分けられていたり、
特に言及されなかったり、たまに探りを入れてきたり。
どちらか分からないと不安だ、という人は一定数いるし、「女性にはこう」「男性にはこう」といった性別ごとのマナーのようなものもあるだろうから仕方のないことではあるかも。

ある時、知り合いが主催の大きな集まりで、
初めて会った40代くらいの男性と話していて、「きむらさとしです」と自己紹介すると、
「えー?!男みたいな名前だね!!」と言われたので「いやあ、まあ、ははは」と笑っていると「え、女の子だよね?!ね?!」と無邪気に尋ねてくる。
正直めんどくさいので、まあ適当に話を逸らして音楽の話なんかをしても、「そんな細い腕して!!女の子だよね?!」と、しきりに性別の話からブレない。
(自分を貫くのは一般的に偉いとされてるけど、ここでは貫くなよ)
とうとう痺れを切らして「男です男!名前もさとしなので!」と適当こくと、しばらくそれで話は終わったけれど、集まりが終盤に差し掛かると、
「で、結局どっちなの?」と最後に一発カウンター。

ここまできたらもう褒めてあげたいくらいだな。感心する。
その人自体は悪い人ではないし、話も上手で気さくな人だったけれど、そもそもこの世に「悪人的悪」はいないのだ。
それは幻想であり、アイコンに過ぎない。
もちろん例外はあるけど!
その「悪い人ではない」がトラップとなり、こちらが下手に傷ついたり、傷つけられたのに気を遣う。

話は逸れたけれど、それだけ性別を曖昧にしていると面倒なことが多い。
けれど、性別によって対応を変えざるを得ない世の中の方が僕にとってはよっぽど面倒だ。

もちろん、身体的特徴の差などは考慮すべきだし、「女の子らしく」「男の子らしく」を心のお守りにすることは個人の自由だと思う。
でも、それを他人に強制することは残酷で無慈悲だと思う。
「女の子なのにそんなことやってるの?」とか、「男の子なのに器用だね」とか、褒めてるつもりだろうが余計なお世話だ。
「人として」やっているのだ。全てのことを。
少なくとも僕は「男だから」「女だから」という基準の下で自分のやっていることを判断されたくないし、友達と遊んでいるだけなのに「付き合ってるの?」とかバカみたいなことを言われたくない。

僕のことが気持ち悪ければそう思っていればいいし、男、もしくは女だと断定したければすればいい。
でも僕はそんな隔たりを超えて、無視して行動する。
なりたい自分になるために、今日も泣き言を言いながら、もがいていくんだ。

よろしくッ!

粘土細工に恋をして

家にいることが多いせいか、
昔ことを良く思い返す。

最近思い出したのは、僕の初恋の話。

皆さんはどんな初恋の思い出があるだろう。
苦い記憶、愛おしい日々、切ない会話…
それぞれの中でさまざまな物語が頭を駆け巡る「初恋」という言葉。

そんな僕の初恋は一方通行の片思いだった。
恥ずかしながら相手はテレビの中の人。
…というか人ですらない。
粘土細工のアニメーションだった。

もう遥か昔の記憶なので、一部脚色されていると思うけれど、あれは多分3歳の頃。

年相応に、NHK教育を見ていた時。
彼(?)は突然現れた。
そう、タルピーである。

…知らないとは言わせない!
あの子供から大人まで楽しませる「プチプチアニメ」内で放送されていた、現在放送されている「ナッチョとポム」のオリジン、
「タルピー」だ!!!!!!

彼は万能だ。
僕が初めて見た時はたしか、消防士になる回。
彼は粘土細工という変幻自在の体を駆使して、消防士がいかに大変でかっこいい仕事なのかを伝えてくれた。
というか、当時の幼い僕にはそんなの関係なく、彼のその不思議さに惹かれた。

しかし、それからすぐにタルピーは姿を消した。
タルピーは1994年まで新作が放送されていたものの終了し、たまに再放送がやっていた程度だった。
まるでガンダムの再放送で盛り上がる世間のようだ。もっと親が早めに僕を生んでいれば、僕はタルピーリアタイ勢になれたはずなのに!

とにもかくにも、再放送さえ終わってしまったタルピーのことが、僕はずっと忘れられなかった。
小学校入学直前に、タルピーと遊園地デートする夢を見た。
彼は観覧車の中で僕の欲しかった「アンパンマンのあいうえお教室」をくれた。
めちゃくちゃに嬉しくて余計に忘れられなくなり、しかしその頃はネットも家になく調べる術も無かった。

そして時は流れ、僕は小学生になり、
気づけば高学年になっていた。
当時の僕は家庭の事情で父方の実家の学校へ転校し、田舎ならではの厳しさに完敗し不登校だった。

毎日、不満を解消するためネットでオタ絵を漁り、絵を描き、たまに出かけるドラム教室で外の空気を吸っていた。

そんなある日、ニコニコ動画で好きなアニメのMAD動画を探していた時に、あるものを見つけた。
「アートアニメーション」という、謎のタグ。

気になりクリックすると、見たこともない変なアニメの数々。
チェコ、ロシア、フランス、ドイツ、アメリカ、中国…
色んな国の、なんだか珍妙なアニメが怒涛のように出てきた。
そういえば小学校2年生の時に「チェブラーシカ」のDVDと、「チェコアニメの新世界」という雑誌を買っていたな、と思い
倉庫から引っ張り出した。
雑誌を買ったのは、小さく「タルピー」が掲載されていたから。

「このタグを辿れば、また彼に会えるかもしれない…」
そう思った僕は、ニコニコ動画のアートアニメのタグの海に潜った。
毎日毎日、色んな国の不思議なアニメを見て、タルピーを探した。
そうこうしていうちに、
ヤン・シュヴァンクマイエル、ユーリ・ノルシュタイン、イジートルンカガリー・バルディンなどのアニメ沼に溺れ、いつしかタルピーを忘れてしまった。

そして高校生。
中学生までこんなアニメを見て拗れきった僕は、アートアアニメーターになりたいという夢を抱き、地元のデザイン科のある高校に入った。
そして、他の生徒との歴然の差に苦しみながらも、デザインやデッサンの勉強に励んでいた。
友達から勧められたアニメや漫画、作家を片っ端から掘り返して、勉強する日々だった。

そんなある日、いきなり兄が部屋に入ってきた。
「おい!!!いいもん見せてやるから来い!」
なんだなんだどうした、と兄の部屋へ行くと、そこには懐かしいシルエットが。

タルピーである。

少し前に、兄にタルピーの話をしていて、
YouTubeで検索をしたところ、イタリアかどこかのアカウントが掲載していたらしい。
タルピーの作者である湯崎夫沙子さんは、活動拠点をイタリアにうつし、
タルピーの子孫のようなキャラクターが絵画などを紹介するアニメを制作していた。
それのおかげで、イタリアのファンが誰かが載せてくれたのだろう。

僕は泣いた。
いや、マジで本当に泣いてしまった。

10何年越しの再会である。
今見たら古くなってしまった映像は、
僕を初めて彼と出会ったあの日に引き戻させた。

今現在はまた削除されてしまったのか、見つからなくなってしまったけど、
あの時再会できたことが今でも嬉しくて仕方ない。
彼のせいで僕はチェコ、ロシアアニメの奇妙な魅力にハマり、性癖は歪み、風刺アニメを見たらなんか知らないけどドキドキしてしまう変な身体にしてしまったのだ。
そしてNHKにタルピーの放送フィルムをくれと何度もメールをしてしまうような学生にしてしまったんだ!

また、どこかで会いたいな。
タルピー、湯崎夫沙子さん、お元気で…!

P.S.ナッチョとポムは認めない

僕になにができるんだろう

毎日毎日家に居ます。 
ありがたいことに、今はテレワークができているので、
今もなお電車で通勤している人や、ライフラインを確保するため働かなくてはいけない人たちと比べたら、
とても恵まれていると思い、タイミングや会社の人に感謝しています。

それでもなんだか気が変になりそうで、
働く友達や、遠くで暮らす家族を思いながらなんとか過ごしています。

この間の日曜日はとてもよく晴れていたので、
部屋の掃除や自分のドラムセットのメンテナンスをし、
お気に入りのアニメを見て大層ご機嫌だったんですけど、
やっぱり夜になると不安が押し寄せてきます。

普段から夜は苦手で、意味もなく誰かを疑ったり、
不安で涙が止まらないこともあるのに、
世界中が不安でたまらない夜は、なんというか重圧を感じます。

こんな贅沢な立場でいるなんて申し訳ない、という気分すらしてきて、自粛に罪悪感、でも外に出るのも罪悪感、という板挟み状態に。
全部一人で勝手になってるわけだから自分でなんとかしろという感じだけど、
そうはいかないんだな、とつくづく思う。

どれだけ多くの人に救われてきたのか、
そして今もなお救われている、という実感が日に日に強くなる。
なんでもかんでも嘆いてしまうけど、
それでも助けてくれる友達や家族がいて嬉しい。

だからこそ、今の僕には何ができるんだろう、と考える。

・声を上げること
・落ち込みやすい人を一人にしないこと
・お金をきちんと稼ぐこと
・食べる、飲む、お風呂に入る
・清潔でいること
・色んな人の気持ちをちゃんと考えること

どれも小さくて当たり前なことだけど、
あんまりできていなかったのかもしれない。
今こそ意識してやっていきたい。
怒るときは怒って、笑うときは笑って、
誰かの苦しみを知って、自分の立場からできることをやりたい。

最近頭から色んな言葉が溢れてきて苦しいので、よくnoteを更新する。
誰かの心を癒すことはできないけど、
本当の気持ちを話すことならできる。

僕にできることをやるから、
皆さんも、なんでもいいから、できることをしてくれたら嬉しいし、きっといいことがあると思います。

寝て、また明日も働きます。

ポジティブがそんなにえらいのか?

今日のお昼、仲良しのイラストレーターみそさざいくんと話していて、
会話の流れで最近のTwitterなんかの話をしていて、
ポジティブとネガティブの話になった。

世の中は基本的にポジティブが正義で、
ネガティブが悪とする(少なくともそんな風に感じる)。
それは自己精神衛生上ってこともあるだろうけど、
僕はなんとなく「扱いやすいから」という社会からの圧にも感じる。

ポジティブな人というのは
自分で自分の機嫌が取れて、基本的に前向きで、愚痴を言わずにチャキチャキと行動する。
人を励まし、活動的で、何事も恐れず…etc。

そんなの理想だし、そんなの作られた人格だ。

僕はみんな腹の底はネガティブだと思う。
というかそうであれば安心する。
ポジティブとネガティブは二極化されやすいけど、本当は混在していなければいけないはずだ。
ポジティブとネガティブがあってこその人の心で、どちらかがどうっていうのは違和感を感じる。

僕は概ねネガティブな要素が強い。
落ち込みやすく、妬みやすく、すぐ泣き、誰かと自分を比べる。
でもポジティブな面だってある。
通帳にお金が10円しか無かったら「働きゃいいんだ」と単発バイトで生活費を稼いだり、
全然学校で友達ができなくても「映画が観られる」といって毎日図書館で何かを見ていた。
無計画に上京することだってポジティブな面だと感じている。

だから逆に僕らから見てポジティブに見える人は、ちゃんとネガティブな面もあって、
それでこそ人というものなのだと思う。

今はTwitterなどのSNSで怒りや不安がぶちまけられている。
普段明るい話題しか投稿しない人でさえ。
でもそれでいいと僕は思う。
今はそれが必要な時期でもあると思う。
もちろんそれでダメージを食らってしまう時もあるから、SNSと適切な距離を保ちつつ、
みんながちゃんと怒りや不安や悲しみを機能させているのを見られることに嬉しさや安心感を覚えていたりもする。

こんなひどい状況の中、
補償もされず救われず放置されているこの現状を甘んじて受け入れてニコニコしている場合じゃないんだ。
政治的なことや、純粋な怒りや不安を発言することがたとえ「壊れている」「怖い」と揶揄されても。

無理に起こる必要も発言する必要も無いけど、
ちゃんと言うべき時に言える人はえらい。
今は言葉にすることが無理でも、この現状に違和感を覚えているということを心で、頭で感じているのなら、どうかそのことを覚えておいてほしい。
気持ちは抱くだけでもパワーがある。
とにかく「違うな」とか「怖いな」って感覚を大切にしてほしい。

こんな大切な気持ちを「ネガティブ」なんて簡単な言葉でねじ伏せないでくれ。

いつだって「自分の気持ち」は大事だから。

自分が悪い大合戦

「僕が全部悪いんですよ」
これが口癖といっても過言ではない。
思えば父親も、祖母もよく言っていたな。
そしてこれが行使される時、大抵口論や話し合いに結末がつきかけた時だ。
これを言わなければ話はすんなり終わるはずなのに、火に油を注ぐというか、
最後の捨て台詞めいたことを言おうとしてしまう"血"なのかもしれない。
父と祖母は知らないけど、少なくとも僕は、
最後に罪悪感を与えてやろうとか、
罪をかぶることで善人になろうとかいう魂胆は無いつもりでいるし、言っている時は本気でそう思っている。
「そんなことない」とか「〇〇だから違うでしょ」と罪を被れなくなると、もはや一点張りである(最悪である!)。
でも友達が同じことをやると「は?何言ってんの?」と、自らは棚上げなのである(さらに最悪である!!)。

止められないこの自尊心下げ下げゲームに終わりは来るのだろうか。
23年間も生きてて半分くらいを費やしてるんだからいい加減飽きなさいよと思うんだけど、
これがなかなか抜けられないようだ。

こうやって俯瞰して見てみると爆笑するくらい下らないのに、自分が全部悪いと思い込むともう止まらない。
やっと自分が目の前の出来事にしかフォーカスできないアホだということは自覚し始めたけど、こればっかりはまだまだ止まらない。

上手くいかない自分に心底腹が立つし、
処理ができない感情を親しい人にぶつけまくり嫌われるという現象をあと何回体験すれば僕はこのバカアホな自分と決別できるのだろうか。

計り知れない無能さを叩き直すためには努力と思慮深さが必要になってくるんだろうが、
それ一体どこで売ってるんですか?!
購入の際はショッピングローンは使用可能ですか?!?!?!

とにかく困っている。
自分にここまで手を焼くなんて信じられない。
もう世間的には成熟した人間で、
幾度となく道徳の授業で100点満点をもらったこの僕が、
なぜ担任の先生をいじめ倒していた奴らより上手く生きられないのだろう!!!!!
自分が己に要求していた
気高さ、美しさ、聡明さは、
どうしたら手に入るんだろう!!!

ここまできたらもうブチギレである。

愚痴の言う時の饒舌さと、
人に謝る時の拙さの差にはうんざりだ。

とにかく変わりたい。
良い人間になりたい。
周りの優しさにもたれにもたれた結果、
誰かに優しくすることはできても、
救済することは一切できてないのだ。
むしろ誰かの心に致命的な傷を残し、
直近の生活を荒らしていくのだ。
物理攻撃だったら僕は懲役5年くらいは食らっているだろうなあ。

とにかく自罰的と他罰的を繰り返しては
苦しくなっている。
抜け出したいな、この生活から。