言いたいこと言えない

きむらさとしの日記

ホールドミーバック

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今週の月曜日に2つめのソロ音源

「ホールドミーバック」をリリースしました。

今日はその曲について少し書いていこうと思います。

(聞きながら読むと楽しいかもしれません)

サブスクリプション一覧

https://linkco.re/b2xSYuVP

 

この曲を作ったのは去年の今頃で、コロナで仕事が在宅になり、テレビでは不安なニュースが流れて、僕は孤独を強く感じていた時期でした。

そんな中で、「自分を守れるのは自分だけです」という言葉をよく耳にしてました。

その言葉は抑圧的でもあり、希望でもあり、なんだかその立場や環境によって左右されやすいな、と思い、そこから作った歌です。

 

そもそも、「ホールドミーバック」という言葉はネガティブな意味らしいです。

Hold backが、「我慢する」とか「引き止める」という意味の言葉になるのを、完成してから知りました。

でも、そこがなんだか自分らしいかな、とも思えたりなんかしたり。

 

僕は何となく「本来の自分へ戻ろう」というニュアンスでタイトルとサビに使いました。

戻るとかって、あんまり明るい言葉ではないけど、当時は「早く前みたいに」「状況が戻れば」と良く使っていたことが影響しているのか、「前」「昔」「過去」への信頼を感じていました。

僕も、昔の自分を思いよく悔やんだりしますが、それを超えて、昔を思い返さなかったあの頃に戻りたい、と思いツラツラと歌いました、

 

僕はどうしても美しい言葉や、

口当たりの良いメロディや、

誰かを支える音楽を作れません。

僕が作れるのは、

自分のための、自分に向けた

日記のような曲だけです。

歌っていることは本当に僕が感じたことや体験したことで、そんな小さくてつまらない世界の中で歌を作っています。

そして、それで良いとも思えてきました。

 

昔、一人部屋で丸一日絵を描いていた自分は、他人からの評価よりも自分の心地よさを重視できていた気がします。

あの自分に、ホールドミーバック。

そんな気分で。

 

暗くて明るい、僕の歌です。

よろしくお願いします。

何かに耐えられなくなった時


昨日に引き続き、今日はなんと雨まで降っている。

気圧は下がりまくり、人々が身体に支障をきたしている。

 


もちろん僕もその一人。

頭が痛くて腰が痛くて悲しい気分だ。

昨日も、ちょっとしたことでふにゃふにゃになってしまった。

 


低気圧が来ようと、空が晴れていようと、

僕は唐突に何かに耐えられなくなる時が来る。

人の心を疑ったり、自らの行いに傷ついたり、社会が人々に優しくなかったり。

理由を挙げればキリがないけれど、一貫して言えることは、

自分の他人の境界が曖昧になってきた時にそれは起こる。

 


かつてとても親しくしていた人が

「大切な人は、僕の人生の一部、身体の一部だから、欠けてはいけないんだよ」と言っていた。

当時18歳前後だったからか、その純粋で美しい言葉にいたく感動したけれど、

今思えばなんで独善的で盲目的な考え方なんだろう、と思う。

(もちろん、そういう愛の伝え方もあるとは思う)

 


その気持ちに、強く共感できる。

好きになった人や、深い関係になった人が突然、もしくは少しずつ離れていくということは、文字通り身を引き裂かれる思いだ。

 


でも、でもそんな人とずっといたら、いつしかお互いに取り込み合い、居なくなり、消えてなくなってしまうんじゃないか、と言う恐怖も覚える。

 


愛と言ってしまえば終わりだ。

でも愛には、相手の領域に入り過ぎないということも必要でないだろうか。

相手が他人であるからこそ、別の存在であるからこそ、心惹かれ、関係していきたいと思うのではないだろうか。

 


君がいなくちゃいけない、よりも

君といると楽しい、の方が何千倍も暖かく優しいな、と、思う。

 


でも、今日みたいな何かに耐えられなくなった時に

ふと、誰かの(何かの)一部になって楽になりたいと思う時がある。

振り払う必要は無いけど、"自分にとっては"有害な考え方だから、隅に追いやって、

小さな積み重ねに、集中するしかないんだと感じる。

 


音楽をやっていると、そういう取り込まれたい欲求から遠ざかれる。

本当に僕は、自分のためにしか音楽がやれない奴なんだな、と落胆しつつ、もう諦めてそのやり方で楽しんでいくしないのだな、とも思えた。

 


落ち込むとその分何かが返ってくるな、という実感だけが、僕を肯定してくれるのだ。

ミミズ

※少しグロテスクな表現(虫の死体とか)があるので、もし苦手な方は念のためご注意を。

悪趣味な話ではないよ!…多分。

 

 

 

今日、近所の喫茶店から帰る途中で、ミミズの死体を見た。

東京でミミズの死体を見たのは初めてかもしれない。

大学生の時、大雨の翌日に世界は潤いに満ちてると勘違いしたミミズが干からびているのを見た以来だ。

 


僕は高校1年生まで、父親の実家で暮らしていた。

見渡す限りの田んぼと、今にも倒れそうな小屋のあるバス停と、絵に描いたような村社会の土地。

 


小学校4年の時に、弟が産まれるということで、福岡の中でも都会にある天神エリアの家から越してきたこともあり、この田舎っぷりにはなかなか衝撃的だった。

小学生から高校生までの記憶で、周りの生き物たちは強く印象に残っていたわけではないけれど、今日見たミミズの死体が色々なことを思い出すきっかけになった。

 


田舎は田んぼや畑だらけなので、年がら年中何かしらの虫や生き物がうろつき、最寄りの自販機に夜向かうと、光っている広告の部分に、ハエや蛾やカエルが止まっていた。

 


特に梅雨の時期は、田んぼから上がってきたミミズや、カエルになったばかりの元おたまじゃくしたちが果敢に農道や車道に繰り出し、瞬時に見るも無惨な姿になっていた。

 


当時バス停まで自転車通学していた自分は、無意識によく虫やカエルをひいた。

口の中に脳くい虫(ホントはアブ?ボウフラ?)が幾度となく突入してきた。

 


春から夏にかけては、テンションがぶち上がったカエルや虫の大合唱が毎晩行われたり、

朝起きたら絶対にカメムシが部屋で死んでいたり、

肌着にいつの間にかカマキリが産卵しており、何故かカチカチに固まっていたりして、

引越し当初は耐え難かったな、ということが雪崩のように蘇ってきた。

 


突如として舞い戻ってきた記憶は、どこか他人事のようで、誰かのブログでも読んでいるような感覚になった。

 


思えば、あの田舎での生活は何もないがゆえの面白さや滑稽さがあった。

知らない近所のおばあちゃんがタケノコを裏口から突然持ってきたり、「小鳥を飼うなんて男らしくねえぞ!」という謎理論で飼っていたインコを逃されそうになったり(これは兄が被害者だけど)、

その時は心底怒ったり泣いたり恐怖していたし、今も恐ろしいと思う一方で、

作り話のようなエピソードが自分の中に眠っていること自体に少し感動した。

 


東京のなんてことない道で見かけたあのミミズの死体、他人のは思えないので死骸ではなく死体と言っておきます。敬意を込められているかは分かんないけど。

つまらない人間

 

つまらない人間にはなりたくないって言うことほどつまらないことはない。

 

大学生の時、若林正恭の「社会人大学人見知り学部卒業見込」を読んでガチガチに影響され、ライブの打ち上げで「電車で通勤するようなつまらない大人になりたくなくてバンドやってます」と言った相手がサラリーマンをやっているバンドマンで、嫌な顔をされたことを覚えている。

そしてそんなことをのたまっていた自分も、今や電車で通勤する大人の仲間入りをしているという皮肉。

つまるかつまらないかは、そんな表面的な部分では決まるわけないじゃないか。

 

他人をどうこうと断定して話を進めることは、とても楽でスムーズだが、

その分想像力をどんどんなくしてしまい、しまいには独断と偏見モンスターになり、地球全体を焼き尽くしてしまう。

 

僕は、世間的には”特殊なジェンダー”にあり、ゴールデン街で働いていると幾度となくおもちゃにされる。

「女のくに男のふりをすんじゃねーよ」

「私、大学時代にトランスジェンダーの同級生がいたから、あなたを理解してあげられるの」

「男か女かはっきりしてくんないと困るよ」

「女にしては可愛くないもんな」

 

まだまだあるが、これ以上思い出すと大声で壁をぶん殴りそうになるので割愛。

こういう時は大抵ニコニコして「お酒、次ど〜します???」と尋ねると話題自体が消滅することがほとんどなので、気に留めないようにしている。

 

自分ばかり可哀想でしょ、という話がしたいのではなくて、

どんなに普段いい人で善良で、よく働き家族を愛し、休日は日曜大工に精を出しているような人でも、飲みの席やふとした時に他人を断定してしまう”つまらない人間”と化してしまうのだ。

 

かくいう自分も、背の高い友人に「背が高いとモテるでしょ」と短絡的なことを言ったり、運動神経がいい人に「あの人は絶対僕を見下してる」と勝手に疑念を抱いたりすることもある。

そういう時、人というモノは突如としてつまらなくになってしまう。

 

かといって何でもかんでも肯定しまくるとそれはそれで体に毒で、

いくら周りから評価が良くても、不快感を抱く物に対して肯定的な反応をし続けると、いつか爆散してしまうと思う。

嫌いな食べ物を口いっぱいに頬張り、おかわりするようなもんだ。

 

できるだけ広い視野で生きたい。

他人に優しくいたい。

多くの人を助けたい。

自分のことを心の底から愛したい。

難しいことではないはずなのに、どうしても全部クリアできる日が来ない。

何かが達成できても、何かは必ず失敗する。

いつしか工夫すらしなくなり、1日働いた自分を酒で肯定し、その酒で自己否定に走るばかり。

そんな生活から抜け出したくて、筋トレやストレッチ、長風呂や読書など文化的で健康的な行いをしてみるが、

夜には結局なしくずしになり枕を濡らす。

俺が何をしたっていうんだ。自分に怒り悲しむ自分に思う。

 

でも、人や自分を断定して生きやすくなるより、

常に自分や他人に疑問や想像力を投げかけ苦しんでいる方が、

自分にとっては健康的なのかもしれない。

 

…いや、そんなことないかな、できれば笑っていきたいかも。

スイッチ

頭の中にスイッチがある。

やる気スイッチみたいなもんではなく、
会う人や環境、状況に応じて自分をカスタマイズするためのスイッチだと思う。

例えば、ライブに出る時は、
出演者としてのスイッチと、
音楽へ意識を向けるスイッチ。
はたまた友達と遊ぶときは、
おちゃらけスイッチ、
その友達が好きな話題(映画、服、アニメなど)スイッチ。
そして、それぞれのスイッチによって消費電力(=心の元気)が異なるので、気をつけないと突然疲れて何もできなくなってしまう。

相手のためにとか、自己犠牲の意識ではなく、
自分の身の安全、心の安全のために入れているスイッチで、
端的に言えば嫌われるリスク、人が離れるリスクを回避するためのものだと思う。

とにかく、多様な種類のスイッチがあって、
毎回入れたり切ったりしていて、
人間関係が増えるにつれて、スイッチの切り忘れや、間違えたスイッチを入れたりしてトラブルになることや、
消費電力がいっぱいになってしまい、やらなければいけないことを放棄するようになってしまう。

自分のためにやっていたことが、
自分自身を苦しめて、
いつの間にやらスイッチそのものが僕をコロコロと変えさせ、操り人形のように動いている感覚にさえ陥る。

そのスイッチは既に全自動化されているので、そのプログラム構築を壊す術を、
もはや操られる側になってしまった僕にはすぐには用意できず、翻弄されている始末。

とにかく、まあ、ほんとーーーに薄く伸ばして言えば、疲れている、ということです。

少し休みたいと思うけど、あまり休むと生きていかれなくなるので、
もう少しだけ頑張ってみようと思います。

踊れない

怒りと悲しみの矛先が無い
歌いたい 踊れない
窓から光は刺さない北向きワンルーム
歌いたい 踊れない
近所で殺人 家のない人だという
歌いたい 踊れない

自分の言葉ってどこに売ってるの?
季節性なら今頃幸せ
悩みはコーヒーに溶けない
踊れない

歌いたい 踊れない
それがどんなにくだらないことかくらい
痛いほど分かってるさ
歌いたい 踊れない
君と君の君の狭間で僕が
この僕がどんな顔してるか知ってる?
知らなくていいよ 今すぐ伝えたいよ
嘘だよ 踊ろっか

お金無いって言ったら怒られた
嘘みたい 踊れない
橋の下で凍える姿が忘れられない
歌いたい 踊れない
皿洗いで痛んだ指のささくれ
歌いたい 踊れない

好きだった気持ちが汚れてくのは
一人ぼっちよりマシなのかい?
泣いたって誰もいない
踊れない

歌いたい 踊れない
それがどんなにくだらないことかくらい
痛いほど分かってるさ
歌いたい 踊れない
ぐるぐる回ってまたこの場所に来た
愚かだって罵って 腹蹴って殺して
嘘だよ 踊ろっか

踊ろっか 踊ろっか
踊れる? 踊れない
戻ろっか 戻ろっか
戻れる? 戻れない

もし君が

濁り水を泳ぐ鳥
軌道が真っ直ぐに揺れる
ゆらんらん、ゆらんらん

足が痛くても歩け
めまいがするような言葉だ
ゆらんらん、ゆらんらん

もし君が
この世からいなくなりたくなったら
見てみたい景色とか
食べてみたいものとか
会いたい人を
心に集めて
ゆらんらん、ゆらんらん