つまらない人間
つまらない人間にはなりたくないって言うことほどつまらないことはない。
大学生の時、若林正恭の「社会人大学人見知り学部卒業見込」を読んでガチガチに影響され、ライブの打ち上げで「電車で通勤するようなつまらない大人になりたくなくてバンドやってます」と言った相手がサラリーマンをやっているバンドマンで、嫌な顔をされたことを覚えている。
そしてそんなことをのたまっていた自分も、今や電車で通勤する大人の仲間入りをしているという皮肉。
つまるかつまらないかは、そんな表面的な部分では決まるわけないじゃないか。
他人をどうこうと断定して話を進めることは、とても楽でスムーズだが、
その分想像力をどんどんなくしてしまい、しまいには独断と偏見モンスターになり、地球全体を焼き尽くしてしまう。
僕は、世間的には”特殊なジェンダー”にあり、ゴールデン街で働いていると幾度となくおもちゃにされる。
「女のくに男のふりをすんじゃねーよ」
「私、大学時代にトランスジェンダーの同級生がいたから、あなたを理解してあげられるの」
「男か女かはっきりしてくんないと困るよ」
「女にしては可愛くないもんな」
まだまだあるが、これ以上思い出すと大声で壁をぶん殴りそうになるので割愛。
こういう時は大抵ニコニコして「お酒、次ど〜します???」と尋ねると話題自体が消滅することがほとんどなので、気に留めないようにしている。
自分ばかり可哀想でしょ、という話がしたいのではなくて、
どんなに普段いい人で善良で、よく働き家族を愛し、休日は日曜大工に精を出しているような人でも、飲みの席やふとした時に他人を断定してしまう”つまらない人間”と化してしまうのだ。
かくいう自分も、背の高い友人に「背が高いとモテるでしょ」と短絡的なことを言ったり、運動神経がいい人に「あの人は絶対僕を見下してる」と勝手に疑念を抱いたりすることもある。
そういう時、人というモノは突如としてつまらなくになってしまう。
かといって何でもかんでも肯定しまくるとそれはそれで体に毒で、
いくら周りから評価が良くても、不快感を抱く物に対して肯定的な反応をし続けると、いつか爆散してしまうと思う。
嫌いな食べ物を口いっぱいに頬張り、おかわりするようなもんだ。
できるだけ広い視野で生きたい。
他人に優しくいたい。
多くの人を助けたい。
自分のことを心の底から愛したい。
難しいことではないはずなのに、どうしても全部クリアできる日が来ない。
何かが達成できても、何かは必ず失敗する。
いつしか工夫すらしなくなり、1日働いた自分を酒で肯定し、その酒で自己否定に走るばかり。
そんな生活から抜け出したくて、筋トレやストレッチ、長風呂や読書など文化的で健康的な行いをしてみるが、
夜には結局なしくずしになり枕を濡らす。
俺が何をしたっていうんだ。自分に怒り悲しむ自分に思う。
でも、人や自分を断定して生きやすくなるより、
常に自分や他人に疑問や想像力を投げかけ苦しんでいる方が、
自分にとっては健康的なのかもしれない。
…いや、そんなことないかな、できれば笑っていきたいかも。